『あさが来た』第20週から働く女性とその子の関係を考える

みさ
ドラマで泣いたりはしないほうなんですけど、今朝は泣いてしまいました

働く母とその子の想い

第20週は、それまでずっとくすぶっていた、母あさに対する娘千代の想いが爆発する週でした。

「私なんて足手まといと思っていたんでしょう?

私が生まれなかったら、もっと好きなように働けて、失敗もせえへんかったと思ってるんでしょう?

私なんか産まんほうが良かったと思ってるんでしょう?」

という千代の言葉は、私から見ても見当はずれに思えますが、そんなふうにひねくれてしまう気持ちもわからないではありません。

 

登美子とその娘の場合

時々お話していますが、富坂登美子と私の関係も似たところがあります。

私を妊娠する前、登美子は不妊治療で三度妊娠し、三度とも流産していました。

立て続けに妊娠と流産を繰り返したため、医者から「少し休みましょう」と無期限に不妊治療の休止を申し渡されたとのことです。

そうしていたある日、下がるべき基礎体温が下がらないので、登美子は医者に行ったそうです。

基礎体温:女性が毎朝起き抜けに測る体温のこと。

体温には低温のとき(低温相)と高温のとき(高温相)があり、低温相から高温へ相へ移ったときに排卵の可能性がある。

排卵された卵子が受精し、受精卵となると体温が下がらず高温相が続く → つまり妊娠したこと。

排卵された卵子が受精しなかった場合は、体温はまた下がって低温相となる。

 

 

医者は「また流産してはいけないので、安静にしていないさい」と言ったそうで、その日から登美子は店に出ず、結局店を畳みました。

しかし、私が生まれて半年ほど経ったとき、赤ちゃん用の普段着が手近で買えずに困ったことから、また子供服を商う店を始めました。

店は登美子の実家の隣だったこともあり、独身だった妹(私の叔母)がサポートをしてくれたからこそできたことだったと思います。

この頃のことを私自身は覚えていません。

しかし想像するに、赤ん坊を抱きながら接客できるわけもなく、お客が来たら妹に抱っこしてもらうというようなことをしていたに違いありません。

 

生後半年から3歳までのこと

仕入に行く日は、登美子いわく、離乳食などすべて作って妹に託したとのことでした。

「あんたは、行ってくるよって言うたら、バイバイって手を振るような子やったからなぁ」と言っていましたが、叔母からは・・・

「お姉ちゃん。忙しいかもしれへんけど、はよ(早く)帰って来てやりよ。夕方になってきたらみさちゃん寂しそうやで」と釘を刺されていたようです。

売れる店ですから仕入は最低でも週一回は行きます。行き先は電車で小一時間ほどの大阪(本町)ですが、行けば数時間で帰って来られるはずもなく、午後6時か7時近くになっていたのではないでしょうか。

赤ん坊の頃から3歳までは、理由なく母親に甘えていたい時期だと思うのですが、機嫌よく抱かれていても、お客さんが来るとひょいと叔母に渡されてしまう。

愛情の交流がブチンと断絶された寂しい気持ちが、今もずっと心の底に溜まっていて、母登美子に対する心の構えになっているように思います。

叔母になついて、登美子に対しては少し他人めいた気持ちで育った私でしたが、いつの間にか幼児の頃の寂しかった記憶は薄れ、思春期特有の諍いも「気が合わないから」「考えが違うから」と思っていました。

それが、二十歳か二十一歳の頃だと思います。

 

二十歳を過ぎても、母が家にいてくれると嬉しかった

夏の或る日曜日(母の店の休日)、友達と遊びに出た私が、いつになく早く、夕方5時過ぎくらいに家に戻ったときのことでした。

玄関には鍵がかかっていなかったので、「ただいま」と言いながら入ると、母の「お帰り」という声が奥から聞こえ、入って行くと台所で料理を作っている母の背中が見えたのです。

母は何かを切っていて振り向きもしなかったのですが、私はその情景に気持ちが高ぶって、鼻の奥が涙で熱くなりました。

そして思ったのです。

私が願っていたのは、こんな平凡な日常だったのだと。

母は毎日のように料理をしているのですから、料理をしている後姿が珍しかったわけではありません。

夏の、まだ明るい陽射しの入る台所で、母が料理をしている。

そこに娘である私が戻って「ただいま」と言い、「お帰り」と言い合う・・・そんな、ありふれた日常が二十歳になってさえ、こんなにも嬉しいとは!

「専業主婦の家に生まれ育った子には絶対わからないだろう」と、そのとき思いました。

そう、そのときにそう思ったんです。

二十歳にしては子供っぽいかもしれませんが、専業主婦のお母さんがいるクラスメートたちを、どれほど羨ましく思っていたかが、そのときドッと胸に迫って来て、涙が鼻の奥に溜まってしまったのでした。

 

お母さんには家にいてあげて欲しい

今、赤ん坊の頃の寂しさや、その後感じていた寂しさは、もうすっかり忘れていますが、二十歳の頃の気持ちの高ぶりとその理由ははっきりと覚えています。

だから、千代があさに言う「甘えたいときにそばにいてくれなかった、いつも家にいてくれなかった」という恨みごとに共感できるのです。

「そんな小さいときのことをいつまでも言って」と親は言うかもしれない。

「これこれこういう理由があってのことだから、仕方がないでしょ。もうわかる年頃でしょ」と親は言うかもしれない。

でも、赤ん坊のときにひょいと胸から離された寂しさ、幼稚園のお迎えがお母さんでなくおじいさんだったことの寂しさ、叔母さんの家で母の迎えを待っていたときの寂しさ・・・そのときに開いた心の穴は、時間が経つことで埋められるわけもないし、理由があるから納得できるというものでもないのです。

この胸に開いている空しさは53歳になった今も埋まっていません。当時のことを思いだすと今でも悲しくなります。だから、私はつい子供の気持ちになって、母親が外で働くことに賛成できないのです。

「反対だ」と言えないのは、家によって事情があるからだとわかっているからですが、それでも賛成はできないのです。

叔母が登美子に言ったように、寂しい夕暮れ時が、ずっと心の中で続いています。

 

 

 

 

 

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主婦起業を応援する「起業専門タロット占い師」です。 忘れっぽくても目標を見失わない! 決意と行動をひも付ける手帳「nicca branding diary」も制作しています。